2008-11-15(Sat)
[第15信](前) 仮釈は恩恵か?
前略。今回は世論に流布している無期刑と仮釈についての誤観念に
ついて検討してみます。
無期刑についての誤観念で著しいものは、「無期とは誰でも一定期間立て
ば必ず自由社会に戻れる」というもものでしょう。しかし、実際はそんな生や
さしいものではありません。無期囚のうち半数以上は獄死しているとい
うのが現実です。経験確率でいえば、6割が獄死し、生きて出獄できるのは
4割です。つまり、無期の判決を受けるということは、50%の確率で獄死す
る、すなわち、60%の確率で「自然力による死刑」を執行されるということと
同じなのです。無期刑とは60%の確率で極刑に相当するものです。生きてシャ
バのお天道様を拝めるのは5人に2人ということです。無期囚における高
齢者割合の増大と平均在獄期間の長期化とともに、いずれ向こう10年以
内には、獄死率は80%に近づくでしょう。仮出獄できるのは、5人に1人
ということになり、事実上、無期刑は終身刑(自然力による死刑)に近づき
ます。裁判官・裁判員は、この点を十分認識した上で無期判決を下すべき
でしょう。
仮釈についての誤観念の第一は、仮釈というものを、「免罪放免」に近い ものと見ている点です。つまり、受刑者は仮釈されることで、自由市民と全く同 じ自由を得るといった観念です。しかし、これは事実に反します。仮釈とは、 受刑者更生のプロセスとして、獄内矯正処遇を獄外矯正処遇に切り換えるも の(スイチング)に過ぎず、その限りで、自由社会にありながら、いくつもの制約 によって縛られており、その意味で、刑の執行停止でもなく、半拘束的な刑 の執行そのものであるというのが、事実の論理的な捉え方です。
仮釈は半拘束的な刑の執行であるとみなすことで、仮出獄者に課される さまさまな義務と制約の法的根拠も明確となると考えます。自由市民には 課されず、仮出獄者に課される義務と制約とは、例えば、(1)遵守事項の順守や それに反した場合の再入獄というペナルティー、(2)罰金刑以上の有罪確定による 再入獄というペナルティー、(3)出頭義務や矯正教育受講義務とそれに反した場合の再 入獄というペナルティーといったもので、その意味で、諸自由権の行使上の観 点から、仮出獄者は自由市民ではなく、制限市民と規定されるのです。喩 えれば、仮出獄者は、ダブル・ジョパティー(再入獄の危険)に日々曝されてる 不安定存在であり、右足は自由社会、左足は監獄に入っているとも言えるし、 また無期の仮出獄者について言えば、恩赦によって刑の執行免除を得られ ない限り、死ぬまでその双肩に監獄半分を担って生きていくようなものといえます。
仮釈についての誤観念の第二は、「仮釈は受刑者の権利ではなく、恩恵 にすぎない」というものです。実を言えば、私自身も、つい最近までは、こういっ た誤観念に呪縛されて来ました。この「仮釈恩恵」論に疑問をもつように なったのは、新「更生保護法」を読み込むことによってでした。
確かに法文上は、受刑者には明示的な仮釈請求権が与えられてはいません。 しかし、仮釈審査官(地方更生保護委員会)によって決定された行政処分としての 仮釈不許可処分に対して、行政不服審査法に基づく、中央更生保護審査会宛の 審査請求が認められており、さらに、それが却下された場合には、裁判所宛に 行政訴訟を起こす請求権が認められていることからすれば、受刑者には仮 釈に関する一種の隠れた請求権が予定ないし前提されているとみなさな いと、不合理です。これをとりあえず〈隠れ請求権〉と呼んでおきましょう。
「恩恵」という用語(辞書的には「なさけ」と同義)によって観念される行為事 態が、お上の「なさけ」という恣意によって、権利なき下民に恩着せがましく恵 みを垂れる──ということであれば、これは明治憲法下では在り得ても、法 の支配を基調とした民主的新憲法の下の歴とした行政処分には、決して在り得な いことです。現憲法下での公権力の行使としての行政処分は第12信(後)で も摘示したように、公平公正性を大原則としての恣意性排除の5原則 に従って決定されなればなりません。そうであれば、行政原則に反する恣意 そのものである「恩恵」というものは、存在の余地がありません。「恩恵」による 行政処分は、行政5原則の全てに反します。そして、仮釈決定は、まぎれもなく、 公権力によってなされる立派な行政処分であることは、第12信(後)でも 指摘しておきました。
そもそも、現憲法下の公権力によってなされる行政処分とは、被処分者の請求 権に基づく、その行使としての申立(申請)に対して、それを認めて、行政当 局(行政庁)が義務として、それに相応しい対応を取るか否かの決定であり、 言い換えるなら、「権利と義務」をめぐる事案であることは否定し得ません。である ならば、決定をもってなされる行政処分である仮釈も、「権利と義務」をめぐ る事案であることは否定し得ません。
仮釈についての誤観念の第一は、仮釈というものを、「免罪放免」に近い ものと見ている点です。つまり、受刑者は仮釈されることで、自由市民と全く同 じ自由を得るといった観念です。しかし、これは事実に反します。仮釈とは、 受刑者更生のプロセスとして、獄内矯正処遇を獄外矯正処遇に切り換えるも の(スイチング)に過ぎず、その限りで、自由社会にありながら、いくつもの制約 によって縛られており、その意味で、刑の執行停止でもなく、半拘束的な刑 の執行そのものであるというのが、事実の論理的な捉え方です。
仮釈は半拘束的な刑の執行であるとみなすことで、仮出獄者に課される さまさまな義務と制約の法的根拠も明確となると考えます。自由市民には 課されず、仮出獄者に課される義務と制約とは、例えば、(1)遵守事項の順守や それに反した場合の再入獄というペナルティー、(2)罰金刑以上の有罪確定による 再入獄というペナルティー、(3)出頭義務や矯正教育受講義務とそれに反した場合の再 入獄というペナルティーといったもので、その意味で、諸自由権の行使上の観 点から、仮出獄者は自由市民ではなく、制限市民と規定されるのです。喩 えれば、仮出獄者は、ダブル・ジョパティー(再入獄の危険)に日々曝されてる 不安定存在であり、右足は自由社会、左足は監獄に入っているとも言えるし、 また無期の仮出獄者について言えば、恩赦によって刑の執行免除を得られ ない限り、死ぬまでその双肩に監獄半分を担って生きていくようなものといえます。
仮釈についての誤観念の第二は、「仮釈は受刑者の権利ではなく、恩恵 にすぎない」というものです。実を言えば、私自身も、つい最近までは、こういっ た誤観念に呪縛されて来ました。この「仮釈恩恵」論に疑問をもつように なったのは、新「更生保護法」を読み込むことによってでした。
確かに法文上は、受刑者には明示的な仮釈請求権が与えられてはいません。 しかし、仮釈審査官(地方更生保護委員会)によって決定された行政処分としての 仮釈不許可処分に対して、行政不服審査法に基づく、中央更生保護審査会宛の 審査請求が認められており、さらに、それが却下された場合には、裁判所宛に 行政訴訟を起こす請求権が認められていることからすれば、受刑者には仮 釈に関する一種の隠れた請求権が予定ないし前提されているとみなさな いと、不合理です。これをとりあえず〈隠れ請求権〉と呼んでおきましょう。
「恩恵」という用語(辞書的には「なさけ」と同義)によって観念される行為事 態が、お上の「なさけ」という恣意によって、権利なき下民に恩着せがましく恵 みを垂れる──ということであれば、これは明治憲法下では在り得ても、法 の支配を基調とした民主的新憲法の下の歴とした行政処分には、決して在り得な いことです。現憲法下での公権力の行使としての行政処分は第12信(後)で も摘示したように、公平公正性を大原則としての恣意性排除の5原則 に従って決定されなればなりません。そうであれば、行政原則に反する恣意 そのものである「恩恵」というものは、存在の余地がありません。「恩恵」による 行政処分は、行政5原則の全てに反します。そして、仮釈決定は、まぎれもなく、 公権力によってなされる立派な行政処分であることは、第12信(後)でも 指摘しておきました。
そもそも、現憲法下の公権力によってなされる行政処分とは、被処分者の請求 権に基づく、その行使としての申立(申請)に対して、それを認めて、行政当 局(行政庁)が義務として、それに相応しい対応を取るか否かの決定であり、 言い換えるなら、「権利と義務」をめぐる事案であることは否定し得ません。である ならば、決定をもってなされる行政処分である仮釈も、「権利と義務」をめぐ る事案であることは否定し得ません。
2008年4月19日 記 北の獄より



